展示

『京都の人々』甲斐扶佐義写真展

2014年9月12日 - 2014年11月16日

Kai Vrouwtjes

1949年大分市に生まれる。11歳のころ、鶏舎を襲う動物を撃つために空気銃を持ち歩くのを見た姉が、銃をとりあげ、カメラをプレゼントしてくれたのを機に、写真を撮り始める。京都の同志社大学へ入学するが、反戦運動に関わるようになり、大学は即除籍となる。 1972年、仲間のフォークシンガー、詩人、セラピストらとともに喫茶店「ほんやら洞」をオープンする。店の仕事をしながら、友人フォークシンガーの「わいせつ裁判支援運動」の事務局長、「南ベトナムの政治犯を釈放するための運動」にも関わる。地元の商店街で国際交流をめざした「国際交流センター」を作るが3年で失敗。一方、地域住民の生活ぶりをスナップ写真に収め、写真集を出版する。

京都新聞紙上で連載を始める。 1978年アメリカのエバーグリーン州立大学で招待展が開かれる。地元・出町では、近所の住民を撮ったスナップ写真(キャビネサイズ400~2000枚)を鴨川べりに貼り出して「あなたも写っていませんか?写っている人は最終日にタダであげます」展という大規模青空写真展を4年間で21回開催。 1981年、喫茶店経営の場から離れ、写真を活用して京都市経済局で民間経営コンサルタントを勤める1985年、バー「八文字屋」をオープン。営業も兼ねて、店を訪れる美女たちを撮るようになり、1991年より毎年、美女写真集「八文字屋の美女たち」を自費出版。長男誕生後からは子ども写真も多く撮るようになり、写真集「狸橋の子どもたち」「KIDS」などを出版。 1997~98年、京都大学研究員として、隠れユダヤ教徒(マラーノ)のコミュニティの痕跡を求め、インド、オランダ、ドイツ、フランス、スペイン、ポルトガルを訪れ撮影。その結果マラーノがらみの故郷の雑種文化をも再発見することになる。 1999年、「ほんやら洞」経営にカムバック。 2001年、アメリカのウェズリアン大学にて招待展「Streets of Kyoto」が開かれ、その後、ボストン、ベルリン、ジュネーブでも展覧会が開かれる。 2007年、30数年間撮りためた傑作写真をまとめ、友人・知人から集めた「弔辞」「贈る言葉」を自筆のまま入れて編集した「生前遺作集」を出版。 2009年、期せずして、京都の時代風俗を活写した全業績に対して、第22回京都美術文化賞が授与される。 2010年、夏、パリで個展。秋はフランス中央部のアートサロンに出品。年末から2ヶ月間、京都中心部の商店街組合が企画した街灯写真展(「河原町グリーン商店街 "アートプロムナード行灯写真展"」河原町通四条~五条間の各街灯・約140灯に写真を入れる)を開催中。 その他、日本国内での個展は京都を中心に、北海道から九州まで、30年間で100回以上開催し、展覧会会場は、美術館、ギャラリー、書店、寺院、大学、飲食店、野外など、多岐にわたる。 写真集・共著は40冊以上。 現在、喫茶店、バーの2店を経営しながら、写真家活動、執筆活動を意欲的に行っている。

京都

京都は、政治の中心が関東に移った後も、794年から1868年までの間、日本の都であった。町には長い歴史があり、その区画は変わることなく、現在でも土地勘があれば、1000年以上前に紫式部がしたためた『源氏物語』の場所を辿ることが出来る。それでいて、歴史が町を圧迫することはない。直ちに人目を惹きつけ、絶対服従を促すような豪華絢爛、または、建築様式がないためだろう。
町の有り様は荘厳だ。三方囲む山々は、北に向かって緑色の微妙な色合いを見せ、うっとりするように美しい。静閑な山麓には歴史的寺院や庭園がある。北から流れ出る二本の川は、たまたま甲斐がカフェ「ほんやら洞」を構え、さまざまな活動の拠点とする出町で合流する。川は合流すると鴨川と名を変え、南に一直線に流れる。鴨川の岸辺は広く、人々は景色を楽しんだりしている。鴨川はまた、東に花街祇園、そして西に若者の好む繁華街木屋町と、自然な境界線となっている。甲斐のもう一つのカフェ「八文字屋」はこの木屋町にある。
京都からは、任天堂など世界に知られる大企業も生まれた。また、町には数多くの大学があり、学生数の密度が高い。京都は官僚制や政府を批判する自由な土地柄でもある。京都は、アメリカ軍の空襲は古都を避けたが、地元の人間が自ら歴史的建造物を破壊した、そんな町でもある。
それにも関わらず、京都の碁盤の目のような町並みには、いまだ19世紀を思わせる生活様式が残っている。町屋には何世代にもわたって家族が住み、近所のつきあいが深い。職人街には、いまも特殊な作業を続ける職人がいる。同じ通りの子どもたちは、みな同じ小学校に通う。銭湯は同じ時刻に通う人たちの社交の場である。観光客が大群となって清水寺や霊山寺に向かう中、これが甲斐扶佐義が半世紀カメラで追ってきた京都であり、彼がそこにとどまる理由である。

作品解説

(正面左手から順番に)
<フラフープの少女>
京都市経済局で商業診断の一環として、壬生地区の青空写真展をやった。行くと必ず、こうやって、この子供たちはポーズをとってくれた。  
1992年、  壬生中新道松原のJR高架下
<骨董を物色中の「お客さんも骨董デスね」と言われかねない老人> 
1975 年 、北野天満宮
<周防猿回しを見物する子供たち>
1981年 、大宮通北大路上ル
<公園で休息中の老ホームレス夫妻>
1975 年、喜多川通大宮の児童公園  阿弥陀寺町  
<カメラを意識して?ジャンケンにもリキが入る> 
1978 年、 新町通上御霊上ル玄武公園
<出番待ちの御稚児さん(上御霊祭)>  
1980 年、上御霊通烏丸西入ル上柳原町
<あそぼか?お家はいろか?晴れ間待ち>  
1975年、烏丸通上立売上ル相国寺門前町
<銭湯オープン待ちの間にアイスクリームを舐める老婦人二人>
この銭湯もなくなった。
1981年、上御霊神社前
夏、盛り場で酒を飲むのもいいが、年寄りは、限度を忘れ、帰宅途上、路上で朝を迎えるのは、お馴染みの光景だ。クワバラ、クワバラ。
1975年、京都御苑
<蛤御門の性の暴走族長じて暴走族を経て好青年になる>  
1977年、京都御苑
<桜花散り吹溜まる小川ではしゃぐ園児仲間>  
1995年、京都御苑
迎賓館が出来る前の京都御苑には、雪の日には山水画のような光景が現出する穴場があったが、今じゃ、この木立も迎賓館の中で昔のようには見えない。  
1976年、京都御苑
<京都3大名水?の一つを連日定時定刻汲みに来るおっちゃんと同伴のヘルメット犬、AKIちゃん(AKI号)>  
1992年、梨木神社脇
<朝のお勤めを果たす(起き抜けに気がかりなご近所の猫とお兄さんの様子窺いをする)少年>  
1977年、(ほんやら洞)
<ベトナム戦争からの脱走兵だった元GI兵士だったテリー・ホイットモアさんは、その後、帰国し、営倉務めを終え、かつて、日本で自分の脱走を手助けしてくれた人々にお礼を言いに来日>
彼を案内する脱走兵援助運動に深く関わった哲学者・鶴見俊輔さん、福生の市会議員の遠藤洋一さん、1969年から反戦運動一 筋で近著「1969新宿西口地下広場」の著者でもある大木晴子さんが、ほんやら洞にもお礼を言いに来た。 
1993年、ほんやら洞
日本画家で風俗考証家として著名な甲斐庄楠音だと確信して、「京都新聞」連載中にこの写真を発表したが、最後の愛人(男)から「こんなひ弱な感じでない」とクレームが付き「甲斐庄楠音似の男」と題した。
1979年、寺町今出川
京都人は物持ちが良く「始末」(節約の意)するし、古い物を大切にする。でこういう大昔の乳母車も現役だ。だから、僕は京都に長らく住めたといえる。
1975年、寺町通今出川
人待ちで疲れ、アンニュイな雰囲気を漂わせる少女(この写真ほど、後年、モデルは私よ!と名乗りを挙げる女性が多かった写真はない)
1975年、寺町今出川
<ほんやら洞の看板猫(冬場は、熱が集まる穴場は看板の上)>
1977年、ほんやら洞
<生きている?死んでいる?ほんものや! > 
1979 年、(寺町通今出川上ル立本寺前町)
<お気に入りの縫いぐるみを背中から降ろさない和菓子屋「鶴屋福信」の菅原さんのお嬢さん>  
1975年、 寺町通今出川上ル立本寺前町
<早朝、驟雨の中でも定時の花の配送に赴く白川女>  
1979年、 今出川寺町付近
<氷、灯油、コーラ売りのおやじさん>  
1975年、出町一真町
<買い出し帰りの明治時代からの郵便局の娘だった老姉妹>
元気な妹さんは「出戻り」で、60年以上出町を観察する生き字引。大正時代から昭和50年位までの変遷を凝視し、サラッと語ってくれた。  
1977年、出町一真町
井上久青果店  かつては、祇園の女性に貢いで、店が潰れそうになった事もある2代目の店主の10年前までの口癖は「マスター、一度、外人の女と付き合わせてくれ!」だった。
恋女房は、福井の漁師町出身で、僕には果物を三分の一以下と思える値段で売ってくれる。彼女の兄は、演歌大会の定連優勝者で義理の弟の不始末を何時も カバー。因島から出て来て20年以上番頭を務めた「モッちゃん」(右の男)は、40歳から腰が深く曲がり、ヨチヨチ歩きだが、地域の人気者だったが、店主 にボロクソに扱われた。毎日12時間労働の挙句、倒れた。店主の父親は、35年前にパチンコ屋でフィーバーが掛かり、興奮の余り、その場で心臓麻痺でなく なった。真ん中の女性は、モデルの久保京子さん。 
1997年、出町一真町(今は、店舗は、アーケード内に移動)
<ダンボール集めを生業?(趣味?)とする相国寺塔頭の坊守(右)と雑談好のお婆さん>  
xxxx年、出町三栄町
<スイカを頬張りながら、店番する少女>  
1979年、枡形通二神町
<商店街の大売り出し「ど根性バーゲン」セールに来た僕の追っかけ少年の鍵っ子>
1976年、河原町今出川西入ル上ル三芳町
<鋳掛屋さん>  
1976年、今出川通河原町西入ル米屋町
元京都市長選立候補者、地主、戦後、20数年、敗戦を知らず逃げ隠れた末に出て来た元日本軍兵士に「うちの娘と結婚して下さい」といい、実現させた逸話は有名。京大哲学科卒
2001年、出町相生町
<「鞠つき」 > 
1976年、(出町旧白梅図子の大猪熊町)
<闊歩するダンディな老隠居>  
1976年、河原町今出川上ル青龍町
<電車を待つ虚無僧>
京都の東福寺の塔頭の 明暗寺が虚無僧の本山である関係上、時々、見かけるが、それでも最近はその数も減少してるだろう。僧ではないし、何をしているのだろう?尺八は吹くはず だ。コスプレを楽しむのか?江戸時代は、浪人が隠密の役割をするのに、隠れ箕にした。
1975年、河原町今出川
<ゴム段>  
1976年、河原町今出川西入ル三芳町
<商店街の歳末大売出しにかり出されたチンドン屋さん>  
1976年、河原町今出川上ル青龍町
<「銀行員と少女」のタイトルで人口に膾炙>
いつも「撮って!」「撮って!」と執拗に追っかけて来る「甲斐追っかけ少女組」の一人、の割には撮られてなかった少女が「ね~ってばぁー」と背後で言 うので、振り向きざまに撮った。その背後に集金を成功裡に戻った銀行員がロープ越えしていた。
1975年、河原町今出川下ル
<政府の腐敗に思い余って自費出版本を発行宣伝活動に奮闘する老人>
1975年、河原町通枡形上ル青龍町
<風呂敷マントを身に纏いドスを利かせる少年>  
1978年、枡形通河原町西入ル二神町
<出町では顔の出雲路のお姐さんと付き人?姐さん>
1976年、出雲路神楽町
<「見ざる聞かざる言わざる」像風?の大原女たち>  
1973年、(河原町通今出川下ル梶井町)
<大原女>  
1976年、河原町通今出川上ル青龍町
<電車待ちの老婦人>  
1975年、河原町通今出川上ル青龍町
<市電待ちの金満家の質屋のお婆さん>
1975年、河原町通今出川電停
僕は写真を止めるために処女写真集を出し、写真展「出町界隈あなたも写っていませんか/写っている方には、最終日にあげます」展を鴨川ベリの花屋さんの黒壁にはりつけ、繰り返した。ホームレスもポリさんもよく見物に来た。
1978年、賀茂大橋北青龍町
<糺の森スケッチ光景>  
1975年、下鴨神社
<ヤスで流れ落ちて来る魚を狙う少年>  
1989年、出町橋北
<傘投げ遊びの三少年>  
1978年、糺の森
<毎年3日間しか出来ない「水ソリ」を楽しむ子供たち>
下鴨神社の御手洗祭りの日だけ大量の冷たい水が放流されるのを、地元の子供たちは知っている。
2007年、下鴨宮河町
<パワースポット?で瞑想に耽る白人僧>  
1996年、出町三角州
<下鴨神社の御手洗祭りの屋台の花傘売り>
1979年、糺の森
<なかなか上達しないソフトボール好きな少年たち(左端の肥満少年は、今は、老人然とした出町の主のような飴屋『大甘堂』主人)>
1975年、賀茂大橋北
<一服中のリヤカー屋台引きの焼き芋屋のおっちゃん>  
1976年、下鴨宮河町
<早朝、高野川散歩のオバちゃん>  
1976年、田中下柳町
<愛着深いキューピー人形片手にご近所散歩>
1976年、川端通今出川上ル出町下柳町
<付近の子供相手に子犬の命運を巡って名長広舌をふるう失対のおばちゃん>  
1976年、鴨沂高校体育館プール裏
<老人用の背伸ばしベンチで戯れる御所南小学校生たち>  
2002年、鴨川荒神口
<吹奏楽器を載せたまま置き去りにされた椅子>
最近はあまり見られない光景だが京大の吹奏楽部員は、このままこの場を離れていたものだ。
1993年、鴨川荒神橋付近
<ひとり釣りを楽しむおっちゃん>  
1975年、冷泉通東大路東入ル
<妊婦水泳>
この日、大失敗をした。水泳が終った後、お腹を突き出した妊婦さん全員にプールサイドに一列に並んで頂き、記念撮影をした。このフィルムの巻き取りに失敗。そんな事を何回繰り返して来たことやら。
1990年、京都踏水会(聖護院蓮華蔵町)
幕末、三条近辺では、京阪三条駅向いの檀王法林寺と並んで河原町六角にオランダ商人宿があったが、その裏(裏寺)に18世紀半ば日本最初の人体解剖をやった山脇東洋の記念碑や墓があり、その辺の祠に野良猫が住みついている。  
2002年、裏寺通六角下ル
<夏場は、パンツイッチョロで店頭に立つエロ本屋の(襖の奥には、札束が列をなし積まれているという都市伝説持つ)オヤジ>  
1991年、三条通東山東入ル
祇園の何処の屋形のお姐さんか?かつては祇園に住み、木屋町でBarをやっていたので、毎日、三条大橋か四条大橋かを渡る際には顔馴染みのお姐さん、オカアサンに会った。
1978年、三条大橋
<鴨川のペンギン(大阪信愛女子高生)>  
1988年、(三条大橋付近)
<「オーッ《法雨、と言っている》のおっちゃん」(托鉢僧)に喜捨をする少年>  
1994年、古門前通東大路西入ル古西町
<路地裏の日向ボッコ>  
1991年、古門前通東大路西入ル古西町幸小路
<路地に立ちつくす少年>  
1993年、祇園切通新門前付近
<夕立のあとに>  
1990年、(白川北通り)
<ご近所の「大塚モータース」の洗い晒しの修理で汚れた軍手> 
1993年、古門前通花見小路西入ル
「 これは、イ(にんべん、と読む)さんのお姐さん(芸妓さん)、え!」と長年祇園に住むと教えてくれるご近所さんも出現した。  
1992年、白川南通り
<長仙院の猫写真   長仙院の仲良しの招き猫>  
1999年、裏寺通六角下ル(誓願寺裏)
<名残り惜しい散りゆく桜を愛づる老主人と付き添いの女性>  
1994年、祇園白川南通
夏の京都は、外出する際に身軽に動くには傘を持つかどうか判断に苦しむ。とつぜんの夕立に出会すからだ。逆に、お陰でこのような愉快なシーンも出来する。  
1991年、四条大橋下
<歳末恒例行事となっている「助け合い」の喜捨を求めて立つ僧>  
1995年、四条大橋
30代後半まで上七軒、祇園、先斗町、宮川町、島原の芸妓、舞妓、太夫、仕込さんとは全く縁がなかったが、中学の修学旅行でほんやら洞にきた女の子が後年、舞妓になり、八文字屋まで尋ねてきた。その辺りから、少しずつ彼女らや彼女らの町にも親しみを持てて来た。
1991年  六角通河原町東入ル
<今年は「パラソフィア」の企画で評判だった元・立誠校のグランドの地下土管に隠れすむ猫>  
2004年、木屋町四条上ル
今はなき名曲喫茶「みゅうず」のトイレから出て来た先斗町の芸妓さんに遭遇。花街だけでなく、街中の喫茶店、本屋さんで、休日を楽しむ芸舞妓に出会すケースが多い。  
1990年、西木屋町通四条上ル
<御座敷トンビも入念なメイクから>  
1992年、木屋町四条上ル
<帰国子女の京大生。飲み屋街のマドンナ>
2000年、八文字屋
左端は、建築家兼小説家(『群像』新人賞受賞)鈴木隆之、次は、「ボブ・ディラン全詩集」の邦訳者で「フォークリポートわいせつ裁判」の被告で(甲斐は、 20代の大半?を彼の裁判支援に費やした)シンガーの中川五郎(オランダ在住のシンガー、エリック・アンダーソンと親交を結ぶ)、次は、「値上げ」等で死 後ますます隠然たる人気を獲得しつつあるシンガーの高田渡、そして、渡の息子でシンガーの高田蓮。
1996年、八文字屋
<バブル期の八文字屋のメニュー>  
1989年  木屋町通四条上ル鍋屋町
<甲斐扶佐義のカフェ・バー「八文字屋」>
2005年、八文字屋
オランダへ帰国前夜をバイト先の八文字屋で踊り明かしたペータース・マリコさん。右は、葦津直人さん。
1993年、八文字屋
<激務に耐えかねて、深夜、酒場でうたた寝をするジャーナリスト>  
2002年、八文字屋
<ディックさんと二人の息子さん(バーツ君とクン君)>  
2004年、(ほんやら洞前:今出川通寺町西入ル)
<疲れ果てたアシスタントの浜田佐智子>  
2011年、宮津市
<鏡の中の自写像>  
1978年、北白川蔦町